2016年12月24日土曜日

飯田橋から早稲田へ ③ 高田馬場跡から子育地蔵尊 (源兵衛地蔵)へ

 再び高田馬場方面へと歩みを勧めます。

ところで、「高田馬場」という地名の由来をご存じでしょうか?
それは、1636年(寛永13年)、徳川三代将軍家光により、
旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が当地に造営されたことに由来します。
現在、この跡地は「八幡鮨」というお寿司屋さんになっており、
ご覧のようなプレートが展示されています。
ただし、こちらの八幡鮨さんの住所は
「東京都 新宿区 西早稲田3丁目1番1号」となっており、
元祖・高田馬場は西早稲田という住所表記になるという、
ちょっと良くわからないことになっています。

(高田馬場跡にある八幡鮨)

(高田馬場跡のプレート)






































また、この近くには「戸塚囃子」の説明プレート (新宿区教育委員会)もあり、
歴史のある町であることを物語ります。

(戸塚囃子のプレート)




















最後にご紹介するのは「子育地蔵尊 (源兵衛地蔵)」です。
交通量の多いエリアにあるので、落ち着いた雰囲気というわけにはいきませんが、
長年に渡り当地を見つめてきたお地蔵さんには何ともいえない威厳があります。

(西早稲田の子育地蔵尊)





















こちらの歴史については、西早稲田商店会が設置したプレートに詳しいので、
以下、引用致します。

(子育地蔵尊のプレート)




















 この地蔵尊がお立ちになっている付近は、
元禄の末頃に源兵衛という人が来て、
鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開こんしましたところ
同心の人々が集まって来て二十八戸から成る新しい村が出来ましたから
源兵衛村という名がつけられたと言い伝えられています。
  その後、二・三十年の間に、亡くなられた源兵衛をはじめ、
同心縁者の菩提の供養をかねて、功績を記念するために
村民の有志者か講中を結集して享保十一年(一七二六年)
にこの地蔵尊を安置いたしました。
源兵衛村、戸塚町、西早稲田と地名は変わりましたが、
地蔵尊のお慈悲心は少しも変わることなく、
信ずる人々の抜苦、与楽、子育、商売繁盛、交通安全などの
諸願をすべて成就させてくださいます。   合掌

  昭和52丁巳年弥生 民族学研究家 三好圭十 記
  平成12年(2000)12月改修 西早稲田商店会

(子育地蔵尊 - 遠景)

(子育地蔵尊)

(彰忠碑石)

(庚申塔)










































































近所には地蔵横丁なる地名もあり、
このお地蔵さんが当地に根付いているのを物語ります。

(地蔵横丁)



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