2017年10月31日火曜日

人形町周辺散策 ⑧ ~鎧橋から日本橋日枝神社へ ~

兜神社を後にして、日枝神社へ向かいます。
川沿いを歩いていくと、「鎧橋」があります。

(鎧橋)



















こちらの鎧橋ですが、初代の橋が架けられたのは1872年のことです。
それまでは渡し舟があったということで、そのことを示すプレートがあります。
以下、引用致します。

鎧(よろい)の渡し跡

所在地 中央区日本橋小網町八・九番
日本橋茅場町一丁目・日本橋兜町一番

 鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。
古くは延宝七年(一六七九)の絵図にその名が見られ、
その後の絵図や地誌類にも多く記されています。 
 伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間
(一〇四六〜五三)に源義家 が奥州平定 の途中、ここで暴風・逆浪にあい、
その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、
無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。
また、平将門 が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。 
 この渡しは、明治五年(一八七二)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、
江戸時代に通されていた渡しの風景は『江戸名所図会』などに描かれており、
また俳句や狂歌等にも詠まれています。 

 縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 
 逆さにうつる 鎧のわたし

 和朝亭 国盛 

平成二十年三月 
中央区教育委員会

確かに川幅は中々広いのですが、護岸がガチガチに固められていて
江戸情緒のようなものは感じることはできませんね。
ただ、反対側にはお地蔵様がいらっしゃり、
微かにその名残を感じ取ることができます。
ちなみに現在の橋は、1957年に架けられたものです。

(鎧橋のお地蔵様)



















右手に東京証券取引所を見ながら、目的地の「日枝神社 日本橋摂社」へ到着です。
こちらは山王日枝神社の摂社で、山王御旅所として知られています。

(日本橋日枝神社)



















日本橋日枝神社の歴史は古く、寛永年間(1624年~1645年)に遡ります。
当時、山王日枝神社の御旅所と当地が定められて、
遥拝所(遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所)
が設けられたことから歴史がスタートしております。

日本橋日枝神社は、証券会社が犇めく茅場町にあることより、
兜神社と並び、証券関係者の信仰が厚いですが、
兜神社は東京証券取引所の開設とともに歴史がスタートしていることを考えると、
こちらの神社の方が古くから当地にあることがわかります。

境内は都心の神社らしく整然とされてはいますが、
随所に昔の趣を感じさせる静謐な空間を演出しています。

(日枝神社 日本橋摂社 - 鳥居)

(日枝神社 日本橋摂社 - 手水舎)

日枝神社 日本橋摂社 - 拝殿)






















































また、境内には「明徳稲荷神社」もございます。
明徳稲荷神社の創建年代は不詳とのことですが、元禄年間には
現茅場町一丁目交差点付近に祀られていたとのことです。

日枝神社境内とはいえ、きっちりと別区画になっているような雰囲気ですね。
朱色が印象的な神社です。

(明徳稲荷神社)

(明徳稲荷神社 - 鳥居)




































日枝神社を後にして、すぐ裏にある智泉院へ向かいます。
明治初年の神仏分離令により分離された薬師堂が、
「鎧島山 智泉院」となりました。

(鎧島山 智泉院 - 本堂)

(鎧島山 智泉院 -お地蔵様)

(鎧島山 智泉院 - 天水鉢)






















































境内で印象的なのはおおきな「天水鉢」ですね。
兜町の旧名である坂本町の文字が浮かび上がっています。
1841年(天保12年)に本尊が開帳されたのを記念して奉納されたこの天水鉢は、
通称釜七で知られた釜屋七右衛門によるものです。

釜屋七右衛門の釜は現在の江東区にありました。
その釜跡については、当ブログでも以前取り上げております。
釜屋七右衛門の作品が見れてちょっと感動です。

旧小名木川駅周辺を散策 (← 釜屋跡訪問のブログ)

これにて、兜町・茅場町エリアの散策は終了し、
再び人形町方面へと戻ることに致します。

2017年10月29日日曜日

人形町周辺散策 ⑦ ~ 銀行発祥の地から兜神社へ ~

日本橋郵便局を後にして、茅場町方面へと歩いていきます。

ちなみに、東京メトロ東西線日本橋駅と茅場町駅の間は0.5Kmしか離れていません。
階段を降りて電車を待って階段を登ると考えると、歩いた方が早い距離ですね。
ちなみに、日本橋から三越前までは0.6Km (銀座線)、人形町までは0.8Km(浅草線)と
この辺りは地下鉄密集地帯と言えます。

「郵便発祥の地」に続いては「銀行発祥の地」へ向かうのですが、
その手前にある「海運橋親柱」も東京を語る上で貴重は遺跡です。
こちらの説明を引用致します。

(海運橋親柱)




















海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一-二〇先 
    日本橋兜町三先

 海運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。
江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監(しょうげん)
忠勝の屋敷が置かれていたので、将監橋とか海賊衆と呼ばれていました。
御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、
幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。
文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、
橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。
このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。
鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七撤去されましたが、
この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。

平成六年三月
中央区教育委員会

日本橋側にある親柱は、公園のような整備された一角にありますので、
じっくりと見学することがきますが、兜町川の親柱は、
ビルの敷地の植木に埋もれていて、ちょっとかわいそうなことになっていますね。

(兜町サイドの海運橋親柱)




















今では高速道路の敷地となった楓川を越えた場所にあるのが、
「銀行発祥の地」のプレートです。

(銀行発祥の地)




















プレートには、

銀行発祥の地 
この地は明治6年6月11日(1879年)
 わが国最初の銀行である第一国立銀行が 創立されたところであります
昭和38年6月建立

と記載があります。

こちらは、今現在は「みずほ銀行兜町支店」として普通に営業しています。
みずほ銀行は、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の合併で誕生した銀行ですが、
そもそも第一勧業銀行自体が、1971年に第一銀行と日本勧業銀行が
合併して誕生した銀行ですので、金融機関の合併というのは昔からあったのだな、
ということを思い起こさせますね。

(みずほ銀行兜町支店 - 右下が銀行発祥の地のプレート)



















こちらのビルですが、今では普通のオフィスビルですが、
昔はなかなか味のある建物だったのがわかります。
同じビルの側面には「兜町歴史地図」とともに、
初代から三代目までの建物のパネルが展示されています。

(兜町歴史地図)

(建物の変遷がわかります)

(付近にはレトロなビルもあります)






















































この通りを真直ぐ歩くと「兜神社」がありますので参拝していきます。

途中、2016年11月30日で50有余年の歴史に幕を下ろした
「喫茶メイ」の跡地を通ります。
金融の中心地の兜町にあり、昔からレトロ感を漂わせていたこのお店、
久しぶりに来てみたら閉店というのは残念です。

(喫茶メイ)

(閉店のお知らせ)





































さて、こちらが兜神社です。
兜神社は、明治11年に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設立される際、
同年5月に取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として造営されたものです。

(兜神社 - 遠景)

(兜神社 - 鳥居と拝殿)

(兜神社の由来)

(神額)







































































境内に安置されている「兜岩」は、前九年の役(1051年 ~ 1062年)の時に、
源義家が東征のみぎりこの岩に兜を懸けて戦勝を祈願したとに由来し、
兜町という地名はこの兜岩に因むと言われています。

(兜岩)



















兜神社自体は小さい神社ですが、兜町で信仰を集める神社だけあり、
きれいに整備されていますね。
訪問日は休日ですが、参拝客もちらほらいらっしゃいますね。
元証券マンという感じの方が多いです。

続いては、日枝神社へと向かいます。

2017年10月28日土曜日

人形町周辺散策 ⑥ ~ 三浦按針屋敷跡から日本橋郵便局へ ~

江戸橋を渡って兜町方面へ向かう前に、是非とも寄ってみたいスポットがあります。
それがこちらの「三浦按針屋敷跡」です。
こちらの史跡がある通りは「按針通り」と呼ぶそうですが、
あまり三浦按針色はありませんね。
石碑がひっそりと建つのみというのはちょっと寂しい気がします。
石碑には三浦按針の略歴が英語・日本語で記載されていますので、
日本語分を引用致します。

(三浦按針屋敷跡 - ビルに挟まれるような形です)

(三浦按針屋敷跡 - 石碑)










































史蹟
三浦按針屋敷跡
 ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、
慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。
造船・砲術・地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、
日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸に歿した。
 日本名三浦按針は相模國三浦辺見に領地を有し、
またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで安針町と呼ばれた。

さて、いよいよ江戸橋を渡り兜町方面へと向かいます。

(江戸橋 - 景観的には高速は確かに邪魔ですね)



















江戸橋を渡ると日本橋郵便局が見えますが、
こちらは「郵便発祥の地」です。

(日本橋郵便局)

(郵便発祥の地)





































碑文には

ここは, 明治四年三月一日(1871年4月20日)
わが国に新式郵便制度が発足したとき 駅通司
と 東京の郵便役所が置かれたところです

と記載があります。

日本国旗と郵便局のマーク、どちらも白地に赤色が美しいです。

また、日本橋郵便局の正面には「日本橋ダイヤビルディング」が建ちます。
こちらは昭和5年完成の「旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル」だったビルです。
こちらのビルは18階建てのビルですが、古い建物5階分が残されています。
旧建物の外壁を残し、内部に新しいビルを建てると言ったやり方だそうです。

こちらは、東京都選定歴史的建造物に指定をされており、
そのことを示す銅製のプレートが埋め込まれています。

(新旧入り混じる 日本橋ダイヤビルディング)

(東京都選定歴史的建造物です)










































日本橋周辺は高層ビルが次々に建設されて、
風情はなくなりつつありますが、このような形で古いものが残るのは
なかなかいいですね。

続いて、日本の金融の中心地・兜町へと足を進めます。

2017年10月27日金曜日

人形町周辺散策 ⑤ ~ 橘稲荷神社から小網神社へ ~

笠間稲荷神社 東京別社から人形町方面へ再び戻ります。
次の目的地は、人形町駅A5出口からですとすぐのビルの一角にこじんまりと建っている
「橘稲荷神社」です。

(ビルの一部のような雰囲気の橘稲荷神社)



















小さいながらも歴史のある神社で、都心の神社らしく、きちんと塀に囲まれた神社です。
御由緒が記載されていますので引用致します。

(橘稲荷神社)

(橘稲荷神社御由緒)





































橘稲荷神社由来

 このあたり江戸期には新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸が
あったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
 当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、
さらに玄冶に賜って当地へ移された。
 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。
 安政6年の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。
 数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。
特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。
 大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、
老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。

平成二年八月吉日

橘稲荷御造営奉賛委員会

先般紹介致しました「玄冶店跡」の石碑からはビルを挟んで対角線上にあります。
ちょっと目立たたない場所ですが、こちらも人形町散策には必見のスポットと言えますね。

さて、最後に 「東京銭洗い弁天」としてもお馴染みのパワースポット
「小網神社」へと参拝へ向かいます。

(小網神社 - 遠景)



















1466年の鎮座したこちらの神社、東京大空襲の戦災を逃れ、
こちらの神社の御守を受けた兵士が全員無事帰還するなどの、
強運厄除に関するエピソードで知られています。

日本橋七福神の福禄寿・弁財天として、
また、下町八福神の一つでもあります。

流石に人気スポットだけあり、参拝客の数が多いですね。
境内がそれほど広くないこともあり、順番待ちの列ができています。
海外からの参拝客も多いと見えて、英語でお札や御守の説明もあります。

(小網神社)

(神額)

(手水舎)

(Koami Jinja Ofuda & Omamori)

(銭洗いの井)
























































































外見からはスタイリッシュな神社ですが、
境内に一歩入ると引き締まる雰囲気があります。
流石に500年以上の歴史を持つ神社ですね。

こちらまで来ると、川を渡ればすぐに証券取引所がございます。
茅場町近辺は仕事で慌ただしく通り過ぎたことはありますが、
じっくりと散策したことはないことに気づきました。

せっかくですから、この機会に散策してみることに致します。

2017年10月22日日曜日

人形町周辺散策 ④ ~ 松島神社から笠間稲荷神社 東京別社へ ~

人形町は歴史ある町ですので、神社も多数ございます。
都心ということもあり、それぞれの神社はこじんまりとしていますね。

まずは、「松島神社」へと向かいます。
日本橋七福神では大国神です。

(松島神社のある大門通り)

(松島神社 - ビルと一体化しています)

(松島神社 - 手水舎)

(松島神社 - 拝殿)







































































松島神社の創建年代は不詳ですが、少なくとも700年以上前に歴史が遡るとのこと。
現在は松島ビルと一体化されており、境内は機能的かつコンパクトに纏まっています。
流石は都心の神社ですね。

続いては、「末廣神社」へ参拝致します。
こちらは日本橋七福神の毘沙門天になります。
末廣神社もコンパクトな神社ですが、田舎にあるように静謐な感じがします。
私が行ったときは、猫ちゃんがのんびりと昼寝をしていました。

末廣神社ですが、江戸時代の初期に吉原が当地に会った際は、
その地主神、産土神として信仰されていました
(1617年 (元和3年) から1657年 (明暦3年)まで)。
明暦3年の大火で吉原は移転しましたが、その後は、
その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の四ヶ所の氏神として信仰されていました。

(末廣神社)

(手水舎)

(末廣神社拝殿)

(境内の猫)







































































また、この付近は古い建物の残るエリアでもあり、
散策も楽しめますね。

(付近の味のある建物)



















続いては「笠間稲荷神社 東京別社」へと向かいます。
日本橋七福神では寿老神になります。
笠間稲荷は日本三大稲荷のひとつとして有名ですが、こちらはその東京別社となります。
常陸笠間藩の第8代藩主・牧野貞直公(1831年 ~ 1887年) が、
本社より御分霊を奉斎して建立されたもので、元々は邸内社とのことです。

(笠間稲荷神社 - 遠景)

(笠間稲荷神社 - 鳥居)

(別社 笠間稲荷神社)

(手水舎)

(流石は稲荷神社)

(拝殿)










































































































こちらの神社は幹線道路沿いの角地に立地しており、
また、境内がすべて舗装されていないので、
一般的な都心の神社とは一線を画す暖かみのある雰囲気ですね。