「大分県中津市」 という検索結果がデカデカとでます。
それでは、福澤諭吉は大分県中津市で生まれたのか?
といいますと、これは正しくありません。
以下、Wikipediaの引用ですが、現在の大阪市福島区でお生まれになられています。
「天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜
(現・大阪府大阪市福島区福島1丁目、通称 ほたるまち)
にあった豊前国中津藩(現・大分県中津市)の蔵屋敷で
下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男(末子)として生まれる。
諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』
(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。」
そうです。福澤諭吉先生は中津潘の蔵屋敷でお生まれになったので、
検索上ミスリードした形になるのですね。
福澤諭吉先生関係では、かつて中央区明石町の「慶応義塾発祥の地」には行きました。
(参考URL)
明石町散歩 ① ~ 日本近代文化事始の地 ~
慶應義塾大学OBの端くれとしては、大阪に行った際には、
こちらの生誕地跡も是非訪れたい!というわけで、今回の訪問となりました。
場所は、朝日放送(ABC)の南側で玉江橋北詰付近。
最寄駅は阪神本線・福島駅、JR東西線・新福島駅、JR環状線・福島駅、
京阪中之島線・中之島駅などからアクセスが可能というなかなか好立地な場所にあります。
まずは、中津藩蔵屋敷跡へと向かいます。
石碑には「備前國 中津潘蔵屋舗之跡 大阪堂島 玉江橋北詰」とあります。
(福澤諭吉先生関係記念碑群) |
(備前國 中津潘蔵屋舗之跡 大阪堂島 玉江橋北詰) |
そしてこちらが、「福沢諭吉誕生地」の石碑です。
こちらに記載されている文章について、以下転載致します。
(福澤諭吉誕生地 石碑) |
(石碑の文章は下記に書き起こしました) |
(「學問ノスヽメ」の一節) |
「幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る。
時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)。
こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。
先生の父百助は一面に於いて、経學者、詩文家であったが、
然も、理財の道に精通した循吏であって
金穀會計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。
彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時
「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」
と語ったと傳へられてゐる。
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道は
これを佛門に入らしめる以外にはなかったのであらう。
當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、
封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか。
昭和二十九年一月 慶應義塾社中建之
題字 小泉 信三
撰文 髙橋誠一郎
書 西川 寧」
かつては屋敷跡で有ったものを示すものは、あまり残っていません。
ただ、堂島川沿いは大阪でもなかなか景色のいい場所ですね。
堂島川沿いは「福島浜緑道」として整備されています。
ちょっと散策するにはいいとこですね。
(福島浜緑道はネーミングライツにより、「Red & Blue St.」と名づけられています」
(福島浜緑道 - Red & Blue st.) |
(散策にはもってこいですね) |
(綺麗に整備された道路です) |
散策の際には、田蓑橋北詰にある「蛸の松」を忘れてはいけません。
元々「蛸の松」は、慶長年間(1596~1615)に、
時の広島藩主・福島政則が植えたと伝えられる黒松が、
枝振りが蛸の泳ぐ姿にように見えることより、「蛸の松」と名付けられ、
大阪の人々の人気を博していたものです。
こちらは、その蛸の松を復刻したものですが、
往時の雰囲気を見事に再現した風情のある松ですね。
(蛸の松 - 見事な枝振りです) |
それでは、続いて福島天満宮へと向かいます。
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