2017年1月16日月曜日

亀戸銭座跡 & 日清紡績創業の地

 先般、大阪で「銅座の跡」のレポートを致しましたが、そう言えば、
わたくしの地元の江東区にも同様の跡地があることを思い出しました。

それがこちらの、「亀戸銭座跡」です。
あの、中学校や高等学校でも習う、超有名貨幣「寛永通宝」。
そちらは、なんとこの亀戸の地で作られていたということです。
今現在は、亀戸二丁目団地となっているこの場所で、
1663年(寛文3年)から1683年(天和3年)まで、寛永通宝銭が造られており、
「亀戸銭座」と呼ばれていたとのことです。

こちらのモニュメントとなっている寛永通宝は寛文8年に作られたものがベース。
その下には、、「銭座絵巻」(1728年(享保13年))より銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、
平研(銅貨の表面を磨く)作業をしている図が描かれています。

(横十間川方面を臨む)

(亀戸銭座跡の石碑とモニュメント)

(横からみたところ、右奥には日清紡績創業の地の石碑)
























































横十間川に面した、この住宅地にそんな歴史があるとは!
と思いきや、こちらにはもう一つの歴史を象徴するモニュメントがあります。

それが、「日清紡績創業の地」の石碑です。
当サイトでは、発祥の地巡りにも力を入れていますが、
こちらは偶然に見つけたものです。

亀戸二丁目団地の場所というのが、日清紡績(現、日清紡ホールディングス株式会社)
の本社工場だったのですね。
つまり、「亀戸銭座」 ⇒ 「日清紡績の工場」 ⇒ 「亀戸二丁目団地」
という変遷を遂げているということです。

(「日清紡績創業の地」の石碑)





















なかなか興味深い歴史です。
以下、碑文の全文をご参考までに記載致します。

日清紡績株式会社は明治四十年1月創立後、
東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地二万余坪に、
最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。
最盛時には、紡機一0七、八00錘、織機三六0台を擁した本工場は、
昭和十六年軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、
四十五年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、
広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。
この間明治四十三年、大正六年、昭和十三年の三たび横十間川の洪水で浸水し、
大正十二年には関東大震災に遭ったが、従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。
昭和二十年大戦下の空襲により焼土と化したが、
運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。
偶々昭和四十二年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。
今般この地に記念碑を建立し会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。

次項では、この近所の史跡をいくつか紹介致します。




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