2017年9月27日水曜日

南砂町の八幡さま - 富賀岡八幡宮

今回は、「南砂町の八幡さま」として地元で親しまれている
富賀岡八幡宮へ行って参りました。

(富賀岡八幡宮)



















富岡八幡宮は知っているけど、富賀岡八幡宮は知らない!
という方も多いかと思いますが、元々はこちらが先と言えます。
八幡さまの正面に、江東区による解説があるので引用致します。

(富賀岡八幡宮 - 案内板)



















 元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、
富岡八幡宮を最初に勧請した所で、
寛永年間(1624-1643)の初めに今の深川へ移し、そのため、
寛文5年(1665)に旧地を元八幡と称したといわれています。
 この付近は松樹が生茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所で
あったといわれています。また「江戸名所図会」や、
安藤広重の「名所江戸百景」などにも当時の様子が描かれています。

というわけで、神社の裏手の商店街は「元八幡通り」と言われ、
亀戸駅前と東陽町駅前を結ぶ、都バス・亀21の最寄りバス停は
「元八幡」となっております。

(元八幡通り)

(元八幡バス停 - 斜めに立ってますね~)





































ちなみに、鉄道の最寄駅は東京メトロ東西線・南砂町駅となっており、
約1Km程度の道程となっています。

早速、参拝へと向かいます。
歴史ある神社だけあり、境内は広々としております。
また、八幡保育園が併設されています。

(富岡八幡宮 - 鳥居)

(富岡八幡宮 - 手水舎)

(富岡八幡宮 - 拝殿)

(八幡保育園)







































































また、拝殿の奥に行きますと、立派な富士塚があるのも特徴です。
こちらの「砂町の富士塚」は砂村の富士信仰の象徴であり、
江東区指定有形民俗文化財に指定されています。
再び、江東区教育委員会の解説を引用致します。

(砂町の富士塚 - 解説版)



















 富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保四年(一八三三)までに、
富士講のひとつ 山吉講 によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、
信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。
富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと
考えたのです。
 砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、
背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。
現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように
中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、
塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。
頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
 塚はもともと三〇mほど北にありました。
当初は土山だったようですが、昭和八年(一九三三)水害のため形が崩れたので
表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和三七年(一九六二)現在地に移築されました。
 塚に附随している数多くの富士講碑により、
現在まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。

平成一八年二月               江東区教育委員会

こちらの解説にありますように、こちらの富士塚には、
富士講碑がものすごく多いのが特徴です。
中には砲弾の形をしたものもあり、バラエティに富んでいます。
また、富士塚は残念ながら登っちゃダメ!ということです。

(砂町の富士塚 - 賑やかな雰囲気です)

(富士講碑)

(ちょうど真後にあります)

(境内社 - 浅間神社)


登れないなら、せめて周りを一周しようと思って裏へ行くと、

「神社の植木まで盗み心いやされますか?
 それを眺めるドロボーの心」

という立看板がありました。

神社の植木を盗む不届き者がいるということですね。
なんともけしからん話です(怒)。

(ドロボー向警告)



















また、富士塚の正面には「出羽三山の碑」がございます。
解説版があるのですが、木製の為字が所々消えており、
現在ではかなり読みにくいのが残念!

(出羽三山の碑)



















当地は、「イオンスタイル南砂」と「スナモ」という2つの
大型ショッピングセンターのちょうど中間地点にあります。
参拝帰りにお買い物も楽しめる、お勧めのスポットです。

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