2017年9月22日金曜日

我國精製糖発祥之地 & 松平冠山屋敷跡

江東区砂町と言えば、大規模団地が多く存在する人工密集地です。
これだけの団地群が存在するということは、
かつては何らかのお屋敷なり工場なりがあったということでもあります。
一部には、かつての栄華を示すべく、石碑や説明版が建っている場所もあります。
こちら江東区北砂5丁目もそのような一画です。

まずは「我國精製糖発祥之地」の石碑です。
こちらは、大日本製糖株式会社(現在の大日本明治製糖株式会社)
によって昭和15年に建てられた石碑です。
今では何気なく使用している白いお砂糖ですが、
ここ砂町の地で、日本で初めて純白の砂糖(上白糖)の製造に成功したのです。

(我國精製糖発祥之地)




















江東区教育委員会により「精製糖工業発祥の地」の案内文が掲示されていますので、
以下引用致します。

精製糖工業発祥の地 (北砂5-20・21)

 砂糖は八世紀に伝来し、十七世紀後半までは 薬として珍重されてきた
といわれています。 江戸時代には、八代将軍 徳川吉宗が 国産化を奨励、
明治に入ると、日本の各地で 精製糖(白砂糖)の製造が試されるようになります。
しかし、いずれもうまくいかず、明治二十三(一八九〇)年、
この地に建てられていた 鈴木藤三郎の製糖所で ようやく成功し、
砂村において日本ではじめて純白の砂糖が誕生しました。
 鈴木藤三郎は、安政二(一八五五)年 遠江国(静岡県)に生まれ、
明治十七(一八八四)年より 氷砂糖を製造していました。
同二十二年、上京し、砂村に工場を移し、同二十五年から
本格的に精製糖の製造を開始しました。
 藤三郎が 工場の移転地としてこの地を選んだ理由は、
原料や製品の運搬に小名木川の水運がとても便利だったからです。
また砂村は、砂糖の国産化の奨励地として、
 徳川吉宗が 甘蔗(さとうきび)の苗を栽培させた、
極めて砂糖とゆかりの深い土地であった ためでもありました。

平成四年三月  江東区教育委員会

上記の説明にありますように、小名木川はこちらからすぐの場所にあります。
小名木川沿いは遊歩道が整備されており、
付近の住民の散歩コースになっていますね。

(付近を流れる小名木川)



















また、我國精製糖発祥之地の石碑のほぼ正面にあるのが
「松平冠山屋敷跡」となります。
こちらは江東区教育委員会の案内文があるのみですが、
歴史は更に遡り、18世紀~19世紀のお話になります。

(松平冠山屋敷跡)

(江東区の案内板)





































再び、案内文を引用致します。

江東区登録史跡

松平冠山屋敷跡 江東区北砂五ー二十ー十六 亀高小学校付近

 松平冠山(本名池田定常)は、明和四年(一七六七)
旗本池田政勝の次男として生まれ、安永二年(一七七三)
七歳で因幡国鳥取藩(島根県)の支範若桜藩(西館家・鉄砲洲家)二万石の家督を継ぎ、
第五代藩主となりました。冠山は、五歳のころより地理を好み、
一四歳にして江戸の地名をいろは寄せにして一冊にまとめるなど、
早くから学問に興味を持ち始め、儒学者の佐藤一斎に学ぶこと四〇年に及んでいます。
生涯の著述は『江戸黄檗禅刹記』や『浅草寺誌』等約七〇種を数えますが、
現存するのはわずか一五種ほどです。
 文政一二年(一八二九)六二歳のとき江戸大火により
鉄砲洲(中央区)の上屋敷が被災し、膨大な蔵書と原稿の大半を失ってしまい、
亀高村の下屋敷(四千坪)に転居します。
ここでの冠山は質素な生活を送りましたが、『江戸名所図会』等に
序文を求められるなど、当時の著名な学者大名毛利高標(佐伯藩)・
市橋長昭(仁正寺藩)とともに「文学三侯」と並び称されました。
 天保四年(一八三三)六七歳で没し、墨田区弘福寺(黄檗宗)に葬られています。

平成一二年三月 江東区教育委員会

付近はごく普通の住宅街ではありますが、砂町銀座商店街やアリオ北砂といった、
買物で有名なスポットの近くになります。
こちらに行く予定があれば、ついでに立ち寄るのがお勧めです。

(付近はごく普通の住宅街です)



















こちらの場所の最寄駅は都営新宿線大島駅で、距離は1Km弱になります。
バスで行くならば都営新宿線西大島駅から都営バス・江東高齢者医療センター行、
もしくは、東大島駅前行のバスに乗って、「北砂五丁目団地」で
下車してすぐになります。

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