2017年9月10日日曜日

旧東海道品川散歩 ④ ~ 浜川砲台跡・立会川で坂本龍馬の足跡を辿る ~

泪橋を川沿いに進み、次に目指すのは浜川砲台跡です。
坂本龍馬ゆかりということで、黒船と龍馬の可愛いイラストが旅人を迎えてくれます。
こちらは、品川が漁師町であったことを微かに示すエリアですね。
船着き場があります。

(浜川砲台跡へ立会川に沿って歩きます)

(龍馬色が強くなりますね)



























(船着き場もあります)




























ここからちょっとした土手を越えたところにあるのが「浜川砲台跡」となります。
こちらが、坂本龍馬ゆかりの砲台であるわけですが、
幕末史研究家で、坂本龍馬関連の著書も多い小美濃清明先生の解説がありますので、
引用させて頂きます。

(浜川砲台 - 全景)



















浜川砲台の大砲 幕末史研究家 小美濃清明

 嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる四艘の艦隊を
日本に派遣して、開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、
再来航するとしてペリーは去った。
 日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。
 土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。
 嘉永七年(一八五四)一月、ペリー艦隊が再来航した時、
急遽、土佐藩が造ったのが、浜川砲台である。

 六貫目ホーイッスル砲   一門(復元)
 一貫目ホーイッスル砲   二門
 鉄製五貫目砲       五門

 計八門を配備した砲台だった。ここに復元したのは六貫目ホーイッスル砲である。
 実物の他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は
江戸っ子の評判も上々で、次のような狂歌も作られている。

 品川の固めの出しのよくきくは
  下地もうまく なれし土佐武士

 (品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、
  準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ。)

 これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くのは、
料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節)だからだという意味である。
 この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ二十歳の坂本龍馬がいたのである。

一見、何の変哲もないこちらの新浜川公園ですが、
土佐藩鮫洲抱屋敷(かかえやしき)のあった場所であり、
幕末にはアメリカと開戦したかもしれない場所であるわけです。

今ではのんびりとクジラも寛ぐ公園ですが、
幕末に思いを馳せながら散策するのもいいものです。

(公園内のクジラの親子 - ちょっと子供は手抜きか?)



















さて、こちらからは坂本龍馬像を目指すことに致します。
立会川駅からこちらに向かうと、まず目に入る像ですね。
高知県桂浜にある像のレプリカで、高知市より寄贈されたものです。
なるほど、どこかで見た感じの像ですね。

(立会川 二十歳の龍馬像)



















こちらの坂本龍馬像ですが、品川区立北浜川児童遊園にありますが、
こちらの公園奥には仲町稲荷神社がありますので参拝していくことに致します。
先ほど、参拝した天祖・諏訪神社ですが、諏訪神社は元々こちらにあったとのことで、
摂社であったこちらの仲町稲荷神社はそのまま当地に残ったそうです。

(伏見仲町稲荷神社)

(伏見仲町稲荷神社)




































ここからは、ちょっとレトロな立会川駅前商店街を通り、
第一京浜沿いを歩くことに致します。

(立会川駅前商店街)



















立会川駅からすぐの場所にある品川区立浜川中学校ですが、
こちらは、土佐藩下屋敷跡となります。

(旧・土佐高知藩山内家下屋敷跡)




















往時を示すものは、こちらの看板のみですが、
坂本龍馬は、黒船到来時、この下屋敷に滞在し沿岸の警護に
あたったと考えられていますので、こちらも龍馬ファン必見のスポットですね。

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