2017年10月21日土曜日

人形町周辺散策 ③ ~ 〇〇の跡・コレクション その2 ~

浜町緑道公園の始点付近にある「漢方醫學復興の地 記念碑」へ向かいます。

ここで偉業を顕彰されている和田啓十郎先生ですが、
明治維新以降、国の医学が西洋医学中心へ舵取りをする中、
漢方医学は忘れ去られるかに思えました。
しかし、和田先生の名著「医界之鉄椎」の出版が、
まさに漢方医学を絶滅から救ったと言われています。

(浜町緑道公園)

(漢方醫學復興の地 記念碑 - 表)

(漢方醫學復興の地 記念碑 - 表)






















































改めて碑文を引用致します。

漢方醫學復興の地

和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき
この地において衣を薄うし 
食を粗にして得たる資金を以て明治四十三年 
醫界之鐵椎を自費出版し 漢方医学の復興に立ち上がった
今や漢方再興の気運に際会し 先生の旧趾に碑を建て 
その偉業を顕彰するものである

昭和五十三年十月十日
日本東洋医学会
東亜医学協会
日本医史学会

なお、この碑文は石碑の反対側にありますので、
少々読みにくい構造になっています。

続いて、人形町駅周辺まで戻り、向かうのは「谷崎潤一郎生誕の地」です。
こちらは記念石碑と中央区教育委員会の説明の2つがございます。
ちなみに、「幻の羊かん 細雪」というのは、かつて湖月というお店で売っていたもの。
既にお店は営業していないとのことですが、谷崎の代表作を冠した看板は健在、
何とも言えない味を出していますね。

(谷崎潤一郎生誕の地 - 「幻の羊かん 細雪」にも注目!)

(谷崎潤一郎生誕の地)





































こちらも説明を引用致します。

谷崎潤一郎生誕の地

所在地 中央区日本橋人形町一 ー 七 ー 一〇

 谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)は、明治十九年七月二十四日、
この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
 同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。
その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。
若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、
第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』、『少年』など
耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。
 のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『細雪』、
『少将滋幹の母』などを遺しています。
その間、昭和十二年、芸術院会員に推され、同二十四年には文化勲章を受賞しました。

平成七年三月
中央区教育委員会

この谷崎潤一郎が生誕する10年ちょっと前までこの付近に住んでいたのが西郷隆盛です。
「西郷隆盛屋敷跡」という説明プレートがありますが、
このプレートがあるのが日本橋小学校前。
流石は中央区!立派な小学校です。
それとも今の小学校はこんなもんでしょうか??

(日本橋小学校)

(西郷隆盛屋敷跡)





































西郷隆盛屋敷跡

所在地 中央区日本橋人形町一丁目一番
    日本橋小網町一四番
    日本橋蠣殻町一丁目一〇 ~ 一三番地

明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(一八二七 ~ 一八七七)の屋敷がありました。
 明治六年(一八七三)の「第壱大区沽券図」には、
「蛎殻町一丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。
屋敷には長屋に一五人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
 維新後、西郷隆盛は郷里鹿児島にいましたが、明治四年(一八七一)に
新政府から請われて上京し、参議に就任、同年十月に岩倉具視を特命全権大使とし、
大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、
筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
 明治六年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、
武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、
西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。
閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、
海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。
この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治六年の改変)。
 下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。
鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、
また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、
明治十年に西南戦争を起こし自害しました。

平成十九年三月 
中央区教育委員会

また、西郷隆盛のお屋敷の敷地はこの小学校のみならず、
お隣の魚久本店にも及んでいたようで、魚久本店さんの店頭にも、
「由来の地」というプレートが埋め込まれています。

(魚久本店)

(由来の地)





































由来の地

今、魚久本店のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様酒井氏の屋敷があり、
又その後には明治維新の三傑の一人、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、
居を構えていた場所です。

こうしてみますと、人形町という町が日本史に果たした役割の大きさを感じます。
〇〇の跡探索は一旦これにて終了、
事項からは人形町周辺の神社を巡ります。

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