2017年10月10日火曜日

御徒町から浅草橋へ ③ ~ 佐竹商店街からおかず横丁へ ~

桜稲荷神社を後にして向かうは「佐竹商店街」です。
佐竹商店街は全長330mの全蓋式アーケードの商店街で、
日本で2番目に古い商店街だそうです。
ちなみに、一番は金沢市の片町商店街だそうですが、
これについては異論もあるようです。

(佐竹商店街)

(佐竹商店街 - レトロな雰囲気の店が多いです)





































そんなレトロな佐竹商店街。
本来はじっくり散策したいところですが、
今回の目的は2つの掲示板のチェックです。

最初は、佐竹商店街入口にある「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡」です。
掲示板を引用致します。

(佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡)




















佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡
台東区台東二・三・四丁目付近

 江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地である。
藩主は佐竹氏で、二十万余石を領有した、東北地方屈指の外様大名であった。
佐竹家上屋敷の当地開設年代は、『武鑑』からみて、元禄二年(一六八九)
もしくは翌三年と考えられる。
屋敷地は広大で、現在の台東三・四丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家八代藩主佐竹義敦(号は曙山)は、日本初の本格的西洋医学書の翻訳書
『解体新書』(安永三年[一七七四]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに、
洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。
また天明年間(一七八一~八九)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、
当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、
当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。
ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が立ち並び、
商店街として発展した。
現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として継承されている。

平成八年三月
台東区教育委員会

台東区教育委員会の掲示板には英語の翻訳も記載されています。
外国人も結構来るのかな?と思っていると、
東欧系と思われる女性二人組がスマホを片手に観光していました。
確かにあまり観光化されていない日本らしい商店街、
と言うと都内ではここが筆頭かもしれません。

また、清洲橋通りを挟んで向かい側には「三味線堀跡」というプレートがあります。
再び、本文を引用致します。

(都営台東小島アパート - こちらにプレートがあります)

(三味線堀跡)





































三味線堀跡
台東区小島一丁目五番

 現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていた。
寛永七年(一六三〇)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。
一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋三丁目あたり)の小島屋という人物が、
この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、
鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、
下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明三年(一七八三)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に
三階建ての高殿が建設された。大田南畝が、これにちなんだ狂歌をのこしている。

 三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景

 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。
しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない
次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。

平成十五年三月
台東区教育委員会

御徒町からここまで歩いてきて、江戸時代はこの辺りが屋敷町だったことがわかります。
それに加え、元々は水上交通が発達していたエリアであることも、
再認識できます。
まあ、東京というのは橋とか堀がつく地名が多いですからね、
結構そういうエリアは多いです。

さて、商店街と言えば、「おかず横丁」で知られる
「鳥越本通り商店会」も近くにあります。
こちらも老舗の商店街ではありますが、閉店した店舗も多くちょっと寂しい限りです。
とは言え、新しいお店もOPENしたりと、まだまだ健在ぶりを発揮しています。

(おかず横丁 - 鳥越本通り商店会)

(商店街内のレトロな建物)

(老舗のお茶屋さん)






















































こちらの商店街をぬけると、次の目的地である鳥越神社はすぐです。

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