2017年10月20日金曜日

人形町周辺散策 ② ~ 〇〇の跡・コレクション その1 ~

人形町は歴史ある町ですが、町自体は様々な変遷を経て変わってきています。
その事実を示す一つの指針が、「〇〇の跡」というプレートの多さです。
今では普通の商店だったり、学校だったりする場所が、
かつては歴史的人物が住んでいたり、生まれた場所だったりするのが人形町です。

まずは、人形町由来の石碑にも近い「蛎殻銀座跡」からスタートです。
こちらにも中央区教育委員会の詳しい説明がありますので、
引用致します。

(蛎殻銀座跡の説明プレート)




















蛎殻銀座跡
所在地 中央区人形町一丁目五・六・七
              ・十七・十八番地域

 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、
通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。
そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。
 江戸の銀座は慶長十七年(一六一二)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、
その百八十八年後の寛政十二年(一八〇〇)六月に、
寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。
 その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた
銀座が再発足しました。
 当時この付近の地名が蛎殻(かきがら)町だったため、
この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、
明治二年(一八六九)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。

平成五年三月
中央区教育委員会

掲示板によれば、この地に「銀座」があったのは、1800年~1869年の69年間ですが、
それよりも前の時代にあったお屋敷の跡が「玄冶店跡」です。
こちらは、幕府の医師であった岡本玄冶の屋敷跡です。

蛎殻銀座跡がある甘酒横丁の交差点から歩いて、
人形町交差点付近のはす向かいにあります。

(玄冶店跡)

(玄冶店跡の説明プレート)





































玄冶店跡(げんやだなあと)

所在地 中央区日本橋人形町三 - 八付近

 江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、
幕府の医師であった岡本玄冶の排領屋敷があったことから
「玄冶店」と呼ばれていました。
 岡本玄冶(一五八七 ~ 一六四五)は京都に生まれ、
医術を曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に学びました。
元和九年(一六二三)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、
幕府の医師となりました。
後に法眼から法印に叙せられて啓迪院(はくてきいん)と号しました。
 三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。
「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしょかふ)」には、
寛永十年(一六三三年)、家光が大病を病んだ時、
諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、
この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。
 岡本玄冶の拝領屋敷は「寛保沽券図(かんぽうこけんず)」によると、
「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。
当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、
明治維新で地所を奉還したと伝えられています。
岡本玄冶は正保二年(一六四五)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。
 玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、
嘉永六年(一八五三)に中村座で初演された
「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の
「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、
その名が広く世に知られるようになりました。

平成十六年三月
中央区教育委員会

こちらの掲示板にはさらりと書いてありますが、
60間 ≒ 109m、25間 ≒ 45m、1,500坪 = 4,959㎡
というかなりの広さのお屋敷だったことがわかります。

さて、こちらから久松警察署方面へ歩いていきますと、
「賀茂真淵県居の跡」があります。
こちらはファミレスのジョナサンの壁にプレートが張り付けてあります。
今までのものとは若干趣が異なりますね。

(ファミレスのジョナサンにひっそりと張り付いている感じです)

(賀茂真淵県居の説明プレート)





































賀茂真淵県居(かものまぶちあがたい)の跡
都指定 大正七年四月
所在地 中央区日本橋浜町一ノ四付近

 古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(一六九七 - 一七六九)は、
現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずまろ)に入門し、
元文二年(一七三七)江戸に下り、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。
 隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、県居の翁と称し、
「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。
また歌会なども多く開き、その作品は今に伝えられている。

あがた居の茅生(ちふ)の露原かきわけて
            月見に来つる都人かも

 その旧跡は、この地点の北東約百メートルのあたりである。

平成元年七月
中央区教育委員会

とりあえずこちら方面はここまでで、
一旦人形町駅方面へと戻ります。

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