街行く人々も、どこか忙しげで、ちょっと落ち着かない街というイメージです。
そんな虎ノ門・霞ヶ関エリアではありますが、ちょっと立ち止まってみれば、
観光するところもありますよ!というのが今回のレポートとなります。
実際に筆者が昼休みの30分を使って廻った観光スポットを紹介します。
まずは、このエリアきっての有名スポットである、「虎ノ門 金毘羅宮」へと向かいます。
(金毘羅宮・正面鳥居) |
(金毘羅宮・社号碑) |
金毘羅宮の歴史は1660年まで遡ります。
1660年(万治三年)、讃岐丸亀藩主の京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を、芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請したことが始まりとなります。その後、1679年(延宝七年) に、丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座されます。
主祭神は「大国主神」と「崇徳天皇」です。
拝殿は昔ながらの建物ですが、2004年に虎ノ門琴平タワーが竣工した結果、社務所はタワーと一体化したような構造になっています。
(虎ノ門琴平タワー入口) |
(虎ノ門琴平タワーの一角にある社務所) |
(手水舎) |
(神楽殿) |
ここで注目しなければいけないのが、銅鳥居です。
こちらは江戸時代の1821年(文政四年)に奉納された明神型鳥居。
上部には奉納の文字、円柱の左に<青竜><玄武>、右に<朱雀><白虎>の霊鳥霊獣がつけられています。
この彫刻の意味するところは「四神=四方の守護神です。
東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が守るということです。
四神は中国の神話から来ており、 天の四方の方角を司る霊獣のことです。
ちなみに、こちらの銅鳥居ですが、2001年には、港区指定有形文化財・建造物として指定されました。
(銅鳥居) |
(北・玄武) |
(東・青竜) |
(西・白虎) |
(南・朱雀) |
そのすぐ横にあるのが、「百度石」。
百度石とは、百度参りをする際に往復の目安として設置されていることがある石の柱のことで、本堂から百度石まで引き返して1往復とします。
こちらの御百度石には、正面に「百度石」、背面には「大願成就」の銘があります。
こちらは、1997年に港区文化財総合目録に登録されました。
(百度石) |
社殿は戦災により焼失してしまいましたが、1951年(昭和二十六年)に再建されました。
(社殿) |
(虎ノ門金毘羅宮の説明版) |
社殿の奥には2つの神社がありますので、併せて、お参り致します。
(喜代住稲荷神社) |
(結神社) |
さて、ここで金毘羅宮を後にして、向かいますのは、「新聞創刊の地」の石碑。
(「新聞創刊の地」の石碑) |
虎ノ門交差点付近にある石碑ですが、通行人はほとんど意識することもなく通り過ぎていきます。こちらの石碑は昭和四十九年十一月に東京都港区教育委員会によって建てられたものです。
石碑の文言を書き起こすと
「洋学者子安峻(こやすたかし)らが、当時虎ノ門外琴平町一番地の旧武家長屋に わが国初の本格的な大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは 明治七年(一八七四年)十一月二日である。
江戸時代の情報伝達形式であった 「読売瓦版(よみうりかわらばん)」から名をとって題号とし 漢字にふりがなを 施した平易な新聞として出発した。 創刊のころ漢字教育を与えられていなかった 市民から 町名番地にちなんで「千里を走る虎ノ門 ことにひらがなは一番なり」と歓迎された。 維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から今日に至るまで題号を変えず全国紙に 発展したのはわが国新聞史上類例のないことである。」
とあります。
この石碑から虎ノ門交差点をクロスした場所にあるのが、「虎ノ門遺址」です。
(虎ノ門遺址・正面) |
(こちらは横から) |
(裏側です、虎はこちら向き) |
「虎ノ門」は、江戸城の南端にあった門の名前ですが、門の形跡はありません。
しかし、虎ノ門という地名は残り、誰もが知る名前となっていますね。
その虎ノ門を記念して造られた石碑がこちらです。
虎ノ門駅8番出口を出てすぐの場所にあります。
石碑の上にちょこんと乗っている小さめの猫のような石碑は虎ですね。
虎ノ門は江戸城南端にあった、と言うことは、この付近には外堀があったということですね。
先程の「新聞創刊の地」にもどり、商船三井三井ビルの方向へと向かいます。
こちらには、外堀最西南の石垣が残っています。
かつての江戸は水と一体となった街で、実際に、新橋もそうですが、橋にちなんだ名前が多いです。が、こちらの外堀も埋め立てられて今では残っていません。
このような、石垣が少々残るのみというのは寂しいところですね。
(虎ノ門 三井ビルディングの一角にあります) |
(史跡 江戸城外堀跡 と記載された石碑) |
(文化庁と渋く記載されています) |
(こちらが石垣) |
(側面から見た石垣) |
実は、江戸城外堀跡の見学には、こちらよりも保存・整備されているスポットがあります。
そのスポットとは、文部科学省構内に残る石垣で、虎ノ門駅から中央合同庁舎7号館(会計監査院があります)への連絡通路内と文部科学省構内ラウンジ前の2か所あります。
まずは、連絡通路内の石垣です。
こちらはかなりの高さがある石垣が保存されています。
石垣のある場所は小ホールのようなつくりになっており、
右壁面には、石垣についての説明パネルが設置されています。
(右手にエスカレーターを見て石垣へ向かいます、 外堀水面も文字が唯一往時を偲ばせます) |
(石垣) |
(石の展示もあります) |
(説明のパネルも充実) |
(石垣を外から見たところ) |
文部科学省構内ラウンジ前は、階段を下って石垣を見れるようになっています。
石垣の対面には、石垣についての説明もあります。
説明版によれば、こちらの石垣は江戸城を取り巻く外堀の一部で、1636年(寛永13年)に江戸幕府が全国の大名を動員して築いたものとのことです。
(こちらの階段を下ると石垣があります) |
(こちらが石垣) |
(夜はライトアップされます) |
(江戸城外堀についての説明版) |
高層ビル群の谷間に、このような歴史的遺構を残すというのはとても素晴らしいことですね。多くの方は素通りというのは残念です。
(まあ、仕事中の人が大半でしょうからしょうがないですが。。。)
ちなみに、国家「君が代」で詠まれている「さざれ石」もこの横にあります。
(さざれ石) |
さて、最後に向かうは、中央合同庁舎7号館も含まれる「霞が関コモンゲート」の一角の石碑です。
まずは、国立教育会館の跡地にある石碑がこちらです。
(国立教育会館の石碑) |
そもそも「霞が関コモンゲート」は、かつての旧文部省庁舎、会計検査院、国立教育会館、霞山ビルなどを一体的に再開発して誕生したものです。 旧文部省庁舎など一部保存されているものもありますが、その多くは新しいビルへと生まれ変わりました。
国立教育会館ですが、教育関係者の資質や指導力の向上を目的とする研修の為の施設として、1964年(昭和39年)6月4日に特殊法人国立教育会館として設立されたものです。
その後の行政改革により2001年4月1日に解散しています
この石碑は、特殊法人国立教育会館の門表だったもので、書は、元文部大臣灘尾弘吉氏の揮毫によるものとのことです。
この「国立教育会館」の石碑の横にあるのが、「工部大学校阯碑」です。
工部大学校は後に東京大学工学部となります。
(工部大学校阯碑) |
(工部大学校阯碑の説明版) |
もともとこの辺りは、江戸時代虎門内延岡藩邸であった場所ですが、
1873年(明治六6年)に、 工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校したのが歴史のはじまりです。
後の1788年(明治十年)には工学寮が工部大学校と改称されています。
東京大学に併合されたのは、1886年(明治十九年)のことです。
ちなみに、こちらの石碑横にも、一部石垣が残ります。
(通り沿いに残る石垣) |
と急ぎ足ですが、以上で虎ノ門駅周辺観光は終了。
虎ノ門周辺は働いている人ばかり、と本文中記載しましたが、
石垣目当ての観光客の方が以外と多くびっくりしました。
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