2015年4月17日金曜日

米子紀行 ⑦ ~ 米子市内観光: 米子城址へ ~

 それでは、米子城址へと向かいます。

 米子城(別名、久米城、湊山城とも言う)は、1470年(文明2年)頃築城された、
山陰で最初に築かれた近世初期の城郭でした。
 江戸時代初期には伯耆国一国を支配した中村氏による米子藩の藩庁となり、
その後鳥取藩の支城となりました。
 江戸時代に発布された「一国 一城令」の下、米子城は支城として例外的に存続を許されました。
支城としては、四層五重の天守閣をそなえているのは珍しいとのこと。
 1876年(明治6年)には、米子城の建物の大半は売られて、
数年後に取り壊されました。

 というわけで、米子城址には建物は残っておりませんが、
標高90mの米子城址へと向かいます。
 一般的なルートは反対側(国道9号線)からかと思いますが、
湊山公園サイドからも登るルート(登山口)があります。
米子城址は小山の上にあるような感じですが、運動不足の私にはなかなかの難ルートで、
頂上まで徒歩15分くらいでした。足元があまり良くないので、
それなりの運動靴を用意したほうがいいかと思います。

(米子城址・登山道入口)

(米子城の沿革説明版)

(国史跡 米子城跡の地図)

(いよいよ米子城址へ向かいます)

(このような道が続きます)






























































































 途中、内膳丸跡へと寄ってみます。
内膳とは、米子城築城を指揮した時の家老である、横田内膳 (=横田 村詮(よこた むらあき、
天文21年(1552年)? - 慶長8年11月14日(1603年12月16日))に由来します。
 中村一忠の家老で、禄6千石を受けていた人物です。
妙興寺にお墓があるのは、寺町通りの章でご紹介した通りです。
 こちらは、往時は武器庫が並ぶ、米子城の中心部ですが、今では面影はありません。
石垣が残るのが、少々往時を感じさせる程度です。
本来は絶景ポイントでしょうが、木々が生い茂っている為、
米子港は木々の間からという感じです。

(内膳丸跡と頂上への分岐路)

(内膳丸を示す標識)

(往時の名残の石垣)

(内膳丸から米子港方面を臨む)







































































 さて、内膳丸を後にして、いよいよ、米子城址へと向かいます。
石垣が廃城後に整備されており、米子城があったことを示します。
ここのポイントはやはり絶景。ここからだと、360度のパノラマが広がっており、
米子港も市街も見渡すことができます。
高い建物の少ない米子では、この景色を見るだけでも、登る価値があるかと思います。
(米子城跡から見た、米子市街)

(頂上まであと少しです)

(天守閣跡が見えてきました)

(こちらは鉄御門跡)

(頂上部は絶景が広がります)

(米子城跡の説明版)

(米子城跡から見た、米子港方面)

(米子城跡から見た、米子市街)



























































































































 さて、米子市内へと戻ります。
今度は反対方向へと下山します。
こちらのルートでは、城山大師と石仏めぐりがメインになります。
米子城跡枡形跡から50mほど先にある「城山大師」を起点に、
城山の中腹を八の字に描くコースで、四国八十八か所の札所の寺々を勧請した、
ミニ遍路する石仏コースです。大正14年に米子市民が浄財を集め完成させました。
 こちらは、なかなかの見どころがあるコースとなっており、
石仏めぐりを制覇しつつ、米子城址をめざすのも面白そうです。
しかしながら、全コースを制覇するには3時間くらい必要なので、
次回へもちこしと行くことにします。(頂上への道入口、こちらに出ます)

(第十九番橋池山 立江寺)

(第八番 普明山 熊谷寺
 ~ このように四国八十八か所の札所の寺々を勧請しています)

(頂上への道入口、こちらに出ます)



0 件のコメント:

コメントを投稿