さて、泉岳寺へと向けて歩を進めます。
ここからは、小さい坂の洞坂と、大きい坂を経て泉岳寺へと向かいます。(洞坂) |
(洞坂の標識)
|
洞坂は、東禅寺裏から桂坂へと向かう狭い坂です。法螺坂・鯔坂とも書くとのことで、
坂名由来は、この辺りの村を「洞村(ほらむら)」
といったことに由来するという説が有力とのことです。
(元々は風情がある坂だったことを思わせます) |
(洞坂を下ったところにある東芝山口記念会館) |
洞坂を登りきると桂坂です。桂坂上には高輪警察署等ありますが、
泉岳寺は細い通りを右折するのが近道となります。
(桂坂、広い坂ですね) |
(桂坂の標識) |
桂坂の名の由来は、かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたからとう説、
鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途に急死したことによるという説の複数あります。
なお、「桂」という字は当て字とのことです。
さて、泉岳寺へ到着です。泉岳寺の住所は「東京都港区高輪二丁目11番1号」
となっています。
泉岳寺の最寄駅と言えば、泉岳寺駅(都営浅草線・京浜急行線)ですが、
泉岳寺という地名はありません。
まずは泉岳寺中門から。泉岳寺の門といえば、かつては、
三門(総門、中門、山門)と称されていたそうですが、
今ではこの中門と山門が残るのみです。
(泉岳寺中門) |
(泉岳寺中門の標識) |
中門は1836年(天保7年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に
再建されたものとのこと。
この門をくぐると、お土産屋さんが並ぶ一角があります。
超メジャーな観光地にしては少々地味かもしれませんが、
忠臣蔵関係のグッズは流石の充実ぶりです。
(萬松山・泉岳寺) |
(泉岳寺のお土産屋さん) |
この先にあるのが泉岳寺・山門です。
山門は1832年(天保3年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に
再建されたものとのことで、中門より若干古いものとなります。
「泉岳寺」の白い文字がひときわ目立ちます。
この文字は、晋唐の墨跡研究者にして松山藩士の大野約庵による書とのことです。
(泉岳寺山門外観) |
(泉岳寺山門近景) |
(力強い・寺岳泉 の文字) |
この山門に向かって右側にあるのが、「大石内蔵助吉雄銅像」。
(大石内蔵助吉雄銅像) |
さて、いよいよ本堂へと歩みを勧めます。
本堂は第2次大戦中に空襲にあったため、現在あるのは昭和28年に落成したものです。
(泉岳寺・本堂) |
左手には講堂(2階は義士木像館)があります。
(泉岳寺・講堂) |
(泉岳寺・講堂 2階は義士木像館) |
こちらの講堂の左手に、赤穂義士墓地へ至る道があります。
その間にも、歴史上重要なスポットがあります。
まずは、講堂正面に見て左側にあるのが「主税(ちから)梅」となっています。
こちらの梅は、最年少の義士として知られる、
大石主税(1688~1703)が切腹した松平隠岐守三田屋敷に
植えられていた梅とのことです。
(主税(ちから)梅) |
「瑤池梅」
こちらの梅は、91歳で死去するまで、義士の墓守をした堀部妙海法尼(1686~1774)が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。
(瑤池梅) |
「血染めの梅、血染めの石」
浅野内匠頭(浅野長矩)(1967~1701)が田村右京大夫(田村建顕)(1656~1708)邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。1906年(明治39年)にこちらに移転されました。
ちなみに、田村右京太夫の墓所があるのが先ほど訪れた東禅寺になります。
また、新橋に屋敷跡地があり「浅野内匠頭終焉之地」として碑がありますが、
「首洗井戸」
義士達が吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したと伝えられている井戸です。
(首洗井戸) |
(首洗井戸・金網がかかっています) |
これらの有名スポットを右手に見て、正面にあるのが「赤穂義士墓地」となります。
(赤穂義士墓地入口) |
(赤穂義士墓地全景) |
(赤穂義士墓地) |
(赤穂義士墓地) |
泉岳寺の象徴的な場所であり、参拝客が多いですね。
外国人の方も多いですが、忠臣蔵とかご存じなのでしょうか?
ちょうどメキシコからの観光客がガイドと一緒に来ていました。
スペイン語で忠臣蔵の話を聞くのも面白かったですね。
さて、泉岳寺を後にして、都営浅草線の泉岳寺駅へと向かいます。
泉岳寺駅の正面にある稲荷神社にも寄ることにします。
都心の神社だけあり、マンションの一角にあるという雰囲気です。
(階段を登りきるとあります)
(泉岳寺駅正面にある稲荷神社) |
(稲荷神社入口) |
(階段を登りきるとあります) |
都心にもこういった形で神社が残るのも一つの形になりつつありますね。
0 件のコメント:
コメントを投稿